塾長のごあいさつ

お時間の無い方は、見出しと、赤文字のみお読みください。

あなたのまわりの、頑張るひとにも、称賛とエールを。

「ひとにならう」とはどういうことか

«Πάντες ἄνθρωποι τοῦ εἰδέναι ὀρέγονται φύσει.» (Αριστοτέλης, ‘Των μετά τα φυσικά’)

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」(アリストテレス『形而上学』)

「わたしは報われるのですか」という問い

 「がんばれば、報われるのか」この問いは、受験勉強にかぎらず、あらゆる競争におかれているひとが、一度は自問した経験をもつ心の叫びといえるでしょう。

 2019年度の東京大学の入学式でも、女性学の第一人者である社会学者・上野千鶴子先生が、次のような趣旨の祝辞を述べられました。「東大生の新入学生諸君は、いままでの自分が、『頑張れば報われる』環境におかれ続けてきたことを忘れてはならない。」

 たしかに、「努力」と「成果」あるいは「報酬」との関係は、社会的動物たる人間が問う、永遠のテーマといえるかもしれません。

 

 そもそも、生きものは、いくらがんばっても、がんばっても、死んでしまう。「死」という、必然的な有限性から逃れられない、生命という存在様式そのものに起因する、正義の外部に、わたしたちは、つねにすでに、いるのです。

 しかも、のみならず、わたしたち人間は、「努力が、もしかすると、報われないかもしれない」というその真理を、ひいては、「むしろ、報われないほうが多いかもしれない」という可能性を、理解できてしまう。なぜなら、私たちは、「必然的なもの」と「偶然的なもの」が分かります。すなわち、字義どおり、ものごとを分けて考え、哲学的に、そして科学的に思考することができるからです。

 

 「なんだ、がんばっても、報われないではないか!」この訴えはもはや、ひとがひとである以上消し去ることができない、人類に固有で普遍的な、裏切られる体験への怒りであるとも思えます。そのような悲鳴が、歴史上さまざまな芸術活動の源泉としても機能してきたのでしょう。

ひとが「知ろう」とする理由

 「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」紀元前・古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、冒頭で引用した一文において、ひとが生まれながらにして、だれの手を借りずとも、目の前のなにかについて、それがなんであるかを知ろうとする、自然な本性を宿しているのだ、ということを言っています。

 

 たしかに、考えてもみてください。

 例えば、あなたが赤ちゃんのとき、「母乳がもらえている自分」といった、報われる将来の自分のために、目の前の人物が女性であるか男性であるか、ひいては、自らの母であるかどうかを、知ろうとしていたでしょうか。

 例えば、あなたが小学生のとき、「納得して勉強できている自分」といった、報われる将来の自分のために、学校で出される増えてきた漢字練習の宿題に対して、「なぜわたしはこんなに漢字を練習しなければならないのか、練習しなくても書けるのに」という問いを発し、答えを知ろうとしていたでしょうか。

 

 (「知ろう」とする動機としての)「(報われるためには)知らなければならない」ということと、「知ろう」とすることそのものは、まったく別の話であることが、よく分かるでしょう。

 あなたもわたしも、生まれつき、「これはなに?」と問い、それに答えて応え、知ろうとする意志をもつ、自然な本性をもっているのです。そうでなければそもそも、「わたしは報われるのか」と問い、「報われない」という答えで知った気になることも、できないではありませんか?

 実は、わたしたちは、報われるから、知るのではありません。知るから、報われるのです。しかも、偶然に、です。(このような衝撃をうける逆転の発想を、哲学者たちは「コペルニクス的転回」と呼びます。主に使われる文脈は異なりますが。)

なぜ「知れない」と思ってしまうのか

 ここで、少し立ちどまって、考えてみてください。なぜ、わたしたちはそもそも、「報われる」ことを期待してしまうのでしょう。

 

 すでに引用した祝辞において、上野先生は、次のようにも述べました。「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。」

 「勝ち抜く」とはどういうことなのでしょうか。単なる「勝つ」ことと、どのように違うのでしょうか。

 この文で上野先生が言いたかったのは、「社会的敗者・少数者を尊重しない・見捨てる」こと、という意味ですが、全文を通してのメッセージとしては、「敗者が、もう決して勝てない、立ち上がれないような仕組みをつくる」こと、つまり、「差別を助長する」こと、簡単に言い換えれば、「弱いものイジメをする」こと、をも意味していることが分かります。本当にそのようなことをやろうとしてやっているひとがもしいれば、大変な悪人ではありますが、問題はそう単純ではありません。

 

 忘れてはならないのは、誰もそのような「立ち上がれない仕組み」をつくろうとしていなくても、この問題はわたしたちのそばにあり続ける。人間が、社会をつくり、善を欲し、悪を避けて動き、否定ができ、無を知る、知性をもつ生きものである以上、わたしたちは、そのような「他者を差別する意識」を持ってしまう、ということなのです。

 もうお気付きですか。そうです。わたしたちは、「勝たない」ように仕組まれているのです。「勝たなければならない」、言い換えると、「報われる」ことが当然である、報われなければ「負け」であると思い込まされる、つまりは、他者だけでなく「自分自身を差別する」ようになってしまいがちな、自然な本性があるのです。

 もっと深刻なことに、そのような意識が、友人や、誰か知人から同じように言われたり、制度がその意識を助長するものであったり、と、(もちろんそのような原因も大きく影響しますが、)そのような外の原因が無くても、自然と、心に生まれるのだ、ということです。

 

 「努力したら勝つのが当然だ」「報われなければ負けだ」「どうせ負けるなら知ろうとしても意味がない」このように、ただ、社会の中で、生きていて、大人になっていく過程で、ひとは、ひとりでも、報われなければならないという先入観をもち、負けを認め、自分の限界を定めてしまうのです。それも、わたしたちの自然な本性なのです。

「ひとにならう」ことの力

 わたしたちは、報われるから、知るのではありません。知るから、報われるのです。しかも、偶然に、です。

 しかし、わたしたちは、報われなければ「おかしい」という先入観や差別意識から、また、実際に報われなかった数多くの経験から、せっかくの知る意欲を、素直な知的好奇心を失ってしまいます。

 では、どうすればよいのでしょうか。

 

 私は、「ひとにならう」のがよい、と思っています。

 私は、この文章を読んでくださっているあなたにも、あなたのお子様にも、本来、知ることを欲し、素晴らしい未来を想像し、創造する力が備わっていると、信じています。

 ただ、その引き出し方を知らず、他のひとからか、自分からか、いじめられ、弱いものと思い込んでいる。(あるいは、課題が簡単すぎて、すごく退屈な毎日を送っている、これも同じことです。)いま大変に「もったいない」ことをしているかもしれない、その可能性を、見つめなおしていただきたい。そしてどうぞ、自分自身の力を貶め(おとしめ)、辱め(はずかしめ)、「私なんか、できるわけがない」(あるいは、「簡単すぎて、やっても意味がない」)と、ただ「目の前の点数」という真にちっぽけな、人ですらないものを理由に、尊いご自分の可能性を、ちっぽけなものと、かんちがいしないでいただきたい

 0点を取ったら、「可笑しい(おかしい)」と思われるかもしれません。おかしければ、笑い飛ばして、次に1点でも取れるようにまた努力すればよいのです。笑えないほど辛ければ、泣いて涙としてトイレに流してしまってよいのです。そして、自分で笑えない・泣けないほど追い詰められれば、代わりに泣いて、笑ってくれる誰かを、気兼ねなく、頼ってしまってよいのです。

 誤解を解いてくれるのも、共感し、代わりに喜怒哀楽してくれるのも、(あるいは隠れている能力に可能性を認めて、ふさわしい課題を与えてくれるのも)誰か別のひとでしかありえません。

 

意志と想像力を殺さず、知の作法を体得

  もしいま理不尽に、学校の同級生・会社のルールやノルマ・自分の理想像・均質的な指導要領から、「仲間はずれ」にされていても現実にいまここに生きている、という事実に、私とは異なる世界を見ている、という小さな驚きに、自信をもっていただきたい。そして、できることから、やりたいと思うことから、一歩ずつ、試行錯誤する勇気をもっていただきたい。きっと、なんらかの形で、誰かを幸せにする力が隠れていて、自信がないのは、ただその力を知らないだけなのですから。

 ひとの自然な本性をダメにしてしまうのが、「ひとが社会的で知恵のある動物であること」に由来する自然な本性であれば、打ち勝つきっかけを与えてくれるのも、同じ、自然な本性なのかもしれません。

 

 自分に本来備わっている、「なぜだろう、知ろう」とする意志と、「こうすれば、理解できるのではないか」という想像力を、殺さず、大切にされながら、過去の先人たちの天才的な知恵を、あくまで一つの提案として伝えられ、手ほどきを受け、身につけること。

 「ひとにならう」とは、そのような、大切なものを守る勇気をもらう、自然でいきいきとしたコミュニケーションではないでしょうか。

真の「恵まれなさ」とはなにか

  「いまの能力や環境を、恵まれないひとびとを助けるために使ってほしい。」上野先生はそうもおっしゃいました。

 しかし、また少し立ち止まって、考えてみてください。本当に「恵まれないひとびと」「報われないひとびと」などいるのでしょうか?

 

 いるとすれば、「自分の価値観からすれば、恵まれないと思えるような、ひとびと」かもしれません。だって、測るモノサシ(定規)がひとつであれば、必ず、低い目盛りに当てはまる、「恵まれないひとびと」がいることになりますよね?

 一方で、モノサシ自体が、さまざまで、たくさんあれば、すべての低い目盛りに当てはまる「本当に恵まれないひとびと」の数は、どうなるでしょうか?ほとんどいなくなるでしょう。

 そのように考えると、「恵まれないと思えるようなひとびと」が多ければ多いほど、実は自分が「恵まれないひと」であるかもしれないのです。「恵まれなさ」は、あなたが考える相手のほうにあるのではなく、実はあなたの側にあるのかもしれません。実際、一度あなたが恵まれないと思っているひとびとに、直接会いにいってみてください。必ず彼ら/彼女らも、なんらかの形で、恵まれています。自分の「モノサシ」の少なさに、驚かされるに違いありません。

 (さて、もう、「コペルニクス的転回」という言葉の意味は覚えましたか?)

 

「奴隷から、自由になろう」師の誘い

  その意味では、たいへんに激しいたたかいである受験競争を、無理やりに勝ち抜いてきたのであれば、その東大生こそが、「もっとも恵まれないひとびと」である可能性だってある、ともいえませんか?(あくまで一部の、そして、可能性のお話です。)

 奴隷状態は、その根底に、よろこびではなく、恐怖や欠乏があります。「人の奴隷」、「お金の奴隷」、「欲望の奴隷」、「エネルギーの奴隷」、「正しさの奴隷」、「言葉の奴隷」、「過去や未来の奴隷」、この世に奴隷の種類はたくさんあります。受験において評価される目印である「点数」や、将来の社会的に高い「地位」、そういったものも、典型的な、ひとをその意にそぐわない形で縛りつけるもののひとつでしょう。

 人類は、そのような自分を縛る奴隷的な拘束を、知性を使って、解きほぐし、克服してきたし、これからも克服するのでしょう。

 

 奴隷的な、自分のまぶたを覆っている、一元的な価値観・世界観からの脱却・解放・卒業をすること、そうしながらも、「それでもわたしは、この恵みを、ひとに与えよう」と、よろこんでできることこそが、真に「恵まれる」こと、「勝つ」こと、「進歩する」こと、そして「自由である」こと、ひいては、「人間になる」ということの意味だと思いませんか?

 「ひとにならう」とは、「きみは奴隷ではない、自由になろう」、という師匠からの誘いの船に、勇気を出してのってみる、ということなのかもしれませんね。

 

 

 もちろん、登竜会の先生たちは、師匠の助け船をもらいながら、素直な知的好奇心と意志で、弱い自分に打ち勝ってきた、心豊かな東大生ばかりですよ。

山原 達希

登竜会・塾長

 

東京大学公共政策大学院・特任専門職員

中学/高校・教員免許保有

東京大学文学部・哲学専修卒

灘高校卒


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